愛読してきた「転生したらスライムだった件」がいよいよ文庫版完結となりそうです。かなり楽しみ。かなり読みやすい文体で、これまでも何度か読み返してしまいました。
今月末は追いかけているシリーズものが発売されるので、とても楽しみです。
こういった楽しみは常に持っていたいと感じています。
自分で自分を楽しませなくてはね。
毎日がなんとなく過ぎていく中で、ライフログ的にいろんな足跡を残したいと思い、Blogにしております。
今月末は追いかけているシリーズものが発売されるので、とても楽しみです。
こういった楽しみは常に持っていたいと感じています。
自分で自分を楽しませなくてはね。
今日は、輝かしい成功体験とは真逆の、なんとも苦々しいご報告から始めなければなりません。
先日、一念発起して挑戦したオンライン試験があったのですが、その結果が、さきほど出ました。
結果は、「不合格」。
その三文字が画面に表示された瞬間、時が止まったように感じました。いや、正確には、パソコンの画面を数秒間、無言で見つめてしまったのです。
じわじわと胃の底からせり上がってくる、重く、苦い感情。 それは、「残念だった」とか「悲しい」といった生易しいものではありません。
もっと直接的で、暴力的な感情。 あえて言葉にするならば、「苦々しい」、そして「忌々しい」。
自分の「認識の甘さ」に対する強烈な自己嫌悪と、それに気づけなかった愚かさへの苛立ち。それが、今の私の率直な気持ちです。
今回の挑戦は、私にとって特別な意味を持っていました。
私が受けたのは、IT系の資格試験です。 ですが、私はこれまでその分野の専門家だったわけではありません。むしろ、キャリアや経験とは全く異なる、「全く新しいチャレンジ」でした。
なぜ今、新しいことを? それは、現状維持という名の「ゆるやかな停滞」に、漠然とした焦りを感じていたからです。このまま同じ場所に留まっていていいのか。自分の知らない世界に飛び込むことで、何か新しい景色が見えるのではないか。
そんな思いから、重い腰を上げ、参考書を開きました。 仕事から帰宅した後、眠い目をこすりながら動画教材を再生し、週末にはカフェにこもりました。
「それなりに学習をしたつもり」でした。 しかし、今思えば、その「つもり」こそが最大の敵だったのです。
新しい分野をなめていたわけではありません。しかし、どこかで「これくらいやれば大丈夫だろう」という根拠のない楽観論があった。試験当日、画面に次々と表示される問題に直面し、自分の知識がいかに表層的で、付け焼き刃であったかを痛感させられました。
だからこそ、この「不合格」は、ただの結果ではなく、私の「認識の甘さ」そのものを突きつけられた証拠なのです。 だからこそ、これほどまでに「苦々しく」「忌々しい」のです。
不合格の直後は、この忌々しい感情を早く消し去りたいとさえ思いました。 いっそ何も感じなければ、こんなに苦しむこともないのに、と。
しかし、そのネガティブな感情の渦の中で、ふと、ある考えが頭をよぎりました。
「こんなにも強烈に感情が動いている。これって、すごく“生きてる”証拠じゃないか?」
私たちは大人になるにつれて、感情の起伏を「面倒なもの」「非効率なもの」として扱うようになりがちです。 特に、失敗した時の「悔しさ」や「怒り」といったネガティブな感情は、できるだけ避けたいコストのように扱われます。
傷つくのが怖いから、最初から挑戦しない。 感情的になるのは「大人げない」から、何事もなかったかのように振る舞う。 効率よく、スマートに。それが現代社会の「賢い」生き方だとされている側面は否めません。
しかし、そうやって感情の波風を避け続けた結果、私たちの心はどうなるでしょうか。
私は、それが「心の老化」を早めるのではないかと危惧しています。
私が恐れる「心の老化」とは、単に記憶力が低下したり、新しいガジェットについていけなくなったりすることではありません。
それは、「感受性が鈍くなっていくこと」です。
道端に咲く花の色に、心から「きれいだ」と思えなくなる。
人の親切に触れたとき、素直に「ありがとう」という温かい気持ちが湧いてこなくなる。
美しい音楽や映画に触れても、心が震えず、ただ「情報」として消費してしまう。
そんな、日々の小さな変化や感動に気づけなくなっていくこと。 それこそが、私が最も恐れる「心の老化」です。
昨日と同じ今日、今日と同じ明日。すべてが予測調和の中に収まり、何も心が動かない平坦な日々。それは一見すると「平穏」かもしれませんが、私にとっては「停滞」であり、「生きていない」ことと同義です。
そんな年のとり方は、絶対に私の目指すところではありません。
そう考えたとき、今感じているこの「苦々しさ」や「忌々しさ」が、全く違う意味を帯びてきました。
確かに、この感情は痛い。苦しい。 しかし、これほどの痛みを感じるということは、それだけ私の感受性がまだ生きていて、全力で「嫌だ!」と叫んでいる証拠です。
感動して涙が出るのも、心が動いている証拠。 腹が立って怒りが湧くのも、心が動いている証拠。 そして、失敗して「忌々しい」ほど悔しいのも、心が全力で動いている証拠なのです。
心の筋肉も、身体の筋肉と同じです。 使わなければ衰えます。安全な場所で、負荷をかけずにいれば、楽かもしれませんが、確実に弱っていく。
今回の不合格という「失敗」は、私の心の筋肉に、とんでもない高負荷をかけました。 今、私の心は強烈な「筋肉痛」に見舞われています。
でも、それでいい。 むしろ、それこそが「心の老化」に抗うための、最高のトレーニングだったのではないか。
平坦な道を選び、何も感じなくなるよりも、 たとえ転んで、血を流して「痛い!」と叫ぶことになっても、 感受性のアンテナを研ぎ澄ませていたい。
この「痛み」こそが、私がまだ新しいことに感動できる心を失っていないことの、何よりの証明なのです。
さて、これからどうするか。
「再チャレンジしたい」という気持ちは、確かにあります。 このまま「認識が甘かった負け犬」で終わるのは、私のプライドが許しません。
しかし、正直に言えば、まだ迷っている部分もあります。
「同じ資格にもう一度、リベンジするべきか」 「いや、この失敗を教訓に、全く別の新しいチャレンジに切り替えるべきか」
答えは、まだ出ていません。 不合格のショックから立ち直り、冷静に敗因を分析するには、もう少し時間が必要でしょう。
ですが、一つだけ確信していることがあります。 それは、「新しいことにチャレンジしていく」という姿勢そのものは、絶対にやめないということです。
どの山に登るかは、まだ決めていません。 でも、「登る」という行為そのものは、これからも続けていく。
なぜなら、自分の可能性を諦めたくないから。
「もう年だから」「新しいことは面倒だ」と、自分で自分にリミッターをかけてしまった瞬間、本当の「老化」が始まります。
私は、自分の可能性を諦めたくない。 いつまでも、新しい知識にワク"ワクし、できないことができるようになる喜びに震え、そして、失敗したら本気で「忌々しい」と悔しがれる。そんな人間であり続けたい。
もし、この記事を読んでくださっているあなたが、最近何かで失敗し、私と同じように「悔しさ」で胸が張り裂けそうになっているとしたら。
その感情を、無理に押し殺さないでください。 その「痛み」は、あなたの心がまだ若く、情熱を持っている証拠です。
不合格は、ただの「結果」です。あなたの「価値」ではありません。 大切なのは、その結果を受けて、心がどう動いたか。
私の心は、幸いなことに、まだ動いてくれました。 この「忌々しい」ほどのエネルギーをガソリンに変えて、私はまた、次の一歩を踏み出します。
心の老化に、断固として抗い続けるために。
現実を見据え、信頼を礎に「着実なプロフェッショナル」を目指す
組織が変化に直面する中で、私たち一人ひとりが仕事に対して抱く考えは、その後の行動を大きく左右します。私の仕事に対する根本的な信条は、「自分にできることを着実に実行する」ことに尽きます。この一貫した姿勢が、不安定な状況下でも自身を支える確固たる軸となっています。
目の前の「着実な成果」こそが目標
現在与えられているミッションにおいては、この「着実さ」を「営業スキルの着実な向上」という目的に集約しています。スキルアップの過程で最も重視するのは、一時的な売上よりも「信頼感」の獲得です。顧客との長期的な関係構築を志向しており、この信頼は、日々の「顧客との密なコミュニケーション」と、一つひとつの依頼に対する「確実な対応」によってのみ築かれると確信しています。もちろん、最終的に成果(売上)に繋がることは望ましいですが、その土台となる信頼こそが、プロフェッショナルとしての活動基盤です。
組織の変化と、個人の現実的課題
組織には、メンバーの離脱が続いた過去があり、上層部の体制刷新など、現状を変えようとする動きには前向きな期待を抱いています。特に、メンバーが定着し、安心して業務に取り組める環境が整備されることを強く望んでいます。
しかしながら、現状の組織文化は「組織全体で協働して戦う」というよりも、「個々人の能力と実績が強く問われる個人戦」の側面が色濃いと冷静に分析しています。この現実を無視して、個人の努力が直ちに組織全体を劇的に改善すると考えるのは非現実的です。
現在注力すべきは「個の確立」
したがって、私が現時点で最も注力すべき課題は、組織への貢献以前に、自身の「成果を上げること」、そして「組織の中で確固たる立ち位置を確立すること」であると捉えています。
現実的な課題と理想的な組織像を明確に区別し、まずは足元の業務で「着実に信頼を築く」という自己の行動原則を徹底する。この地に足のついた個人としての道の追求こそが、変化する組織の中で自身が力を発揮し、結果的に未来の組織基盤を支えることに繋がると考えています。
Windows10のサポート切れで一部の方々の間で「Chromebookにしちゃおうか」なんてことをおっしゃっている方々がいらっしゃるそうです。
確かに起動も早いですし、セキュリティもある程度担保されている、価格も安いと悪いことがそんなになさそうです。選択肢としてありなんでは?と個人的にも思います。
私個人としてもChromebookについてはC223NAというASUSのChromebookを使用していたこともあり、好感をもっています。安かろう悪かろうということはなかったと思っています。ただ、やっぱり、画像編集や動画編集、特にAdobeのソフトウェアを動かしたいという自分の興味関心の移ろいから、Macを使用する方向になってしまいました。
もちろん、Macについてはなんの不満もありません。このままずーっと使用していくんだろうなと考えています。しかし、初めて自分で買ったMacbook air(13インチ)が浮いているんですよね。軽くて小さくてキビキビ動いてくれるすてきなマシンだったな、と今でも思います。いま、自分がメインマシンとして使用しているMacbook Proとは使用用途を別にして、なにか使えないか?と考えたときに出てきた一つの解が、今回の表題「MacBook Air (13-inch, Mid 2011) をChromeOS flexで使ってみる」です。
MacOSを使わないというのは、Appleのプロダクトに対してどうなの?という思いはあるのですが、インストールして現状では「ほとんど困っていません」。ほとんどのうち、ひとつが「かなり熱をもってしまう」ことです。やはり2011年モデルですので、すでに15年が経過しています。軽快な動きのChromeOSとはいえ、さすがに15年となると…と思います。逆に、熱はそれなりにもつものの、キビキビと軽快にネット閲覧などが可能なことに驚きます。
注意点として、ということになるのかな?と思いますが、Googleは私が使用しているMacBook Air (13-inch, Mid 2011) についてはChromeOS Flexの動作保証をしていませんので、試してみようという方は自己責任でお願いします。
もうひとつ、キーボードレイアウトについてもちょっと問題があります。日本語キーボードについてはレイアウトを適切に選択して上げる必要がありますので注意してください。また、キーボードバックライトが点灯しませんので、その点は注意が必要かもしれません。
ただ、今となっては懐かしいけど大好きなデザインの一つだった「リンゴが光る」はこのMacbook Airでは健在です。
まだまだ、試用段階ではありますので、気がついたことがあったら今後も報告させていただきたいと思います。
「原因は自分の外にある」と考えることは、瞬間的には心を守る作用があります。
しかし、それが積み重なると場の空気を重くし、改善の回路を細らせてしまうことがあります。
先日、私は同じ一日のうちに二つの場面で、その“空気感”をはっきりと目にしました。
まさか他責志向が、ここまで明確にマイナスの印象を生むとは思っていませんでした。その臨場感が、この記事を書く動機になりました。
午後のオフィスは、コピー機のかすかな稼働音と、キーボードを打つ規則的な音だけが響いていた。
その静けさを切り裂くように、突然、鋭い声が跳ね返った。
「もう、何回目だと思ってるの!」
Aさんが椅子から身を乗り出し、モニターに向かって言葉を投げつけていた。
30代半ばほどのふっくらとした体格。肩にかけた明るい色のカーディガンが、勢いよく揺れている。
原因は、共有スプレッドシートのデータが上書き保存されていたことだった。
作業したのは部下だが、その場には本人の姿はない。
それでもAさんの声は止まらず、室内の壁や天井に跳ね返って響いた。
「勝手に触らないでって言ったでしょう!」
「こういうのが一番信用なくすの!」
早口で畳みかける声に合わせ、マウスのクリック音が強く弾ける。
数人の同僚は画面から視線を外し、書類をめくる手をゆっくりと止めた。
やがて声は震えを帯び、間隔が詰まり、最後にはハンカチで顔を覆って肩を揺らす。
オフィスは音を飲み込み、電話の呼び出し音すら遠くに感じられた。
後日、別の同僚が小声で言った。
「Aさん、こういうの何カ月かに一度はあるんだよ。しかもあのシート、実は誰でも編集できる設定になってたんだ」
約一年ぶりに、前職の同僚と顔を合わせた。
待ち合わせたのは、照明を少し落としたイタリアンバル。
入口近くのカウンターに腰を下ろすと、グラスに注がれるスパークリングワインの泡が、かすかに揺れていた。
最初の数分は近況報告だった。
「元気にしてた?」と互いに笑顔を交わし、仕事や暮らしの変化を軽く話す。
ところが、料理が二皿目に差しかかる頃、話題は急に一方向に傾き始めた。
「上司がさ、ほんと人の話を聞かないんだよ」
「隣の部署のあの人、相変わらずでさ…」
同僚の表情は次第に陰りを帯び、声色は低くなり、言葉の末尾は吐き捨てるように短くなっていった。
会社の制度や方針にも不満はあるらしいが、それはほとんど触れられず、矛先は終始、具体的な人物に向けられていた。
グラスの中の泡が消えるころ、会話の大半は不満と批判で埋め尽くされていた。
かつて同僚は、ちょっとした冗談で場を和ませる明るい人だった。
しかし今は、笑顔の代わりにため息が、軽口の代わりに愚痴がこぼれている。
店を出るころ、涼しい夜風が頬を撫でたが、同僚の表情はほとんど変わらなかった。
後日、この夜の話を耳にした別の元同僚が、静かに言った。
「最近の彼、昔みたいに何かを変えようって感じじゃないんだ。ただ、嫌なことだけを話してるみたいでね…」
これら三つは独立しているようでいて、実際には互いに増幅し合います。
そして、その相互作用が「印象」を通じて外部にも波及することを、この一日で体感しました。
二つの出来事が同じ日に起きたことで、理屈では知っていたはずのことが立体化しました。
声色、間、ため息、視線の動き——ディテールが“空気感”を帯びて迫ってきました。
私は分析するタイプです。観察→構造化→示唆、という流れで物事を捉えるのが好きですし、安心もします。
その私にとって、この一日は「分析の輪郭」を現実の温度に接続してくれる経験でした。
書かずにはいられなかったのは、他責志向の話題が抽象論で終わるのを避けたかったからです。
他責志向は、悪意よりも先に「身を守る反応」として立ち上がります。
だからこそ、責めるのではなく回路を差し替える必要があります。
同じ一日のなかで見た二つの場面は、私にその輪郭をくっきりと刻みました。
原因の所在を外に固定する代わりに、内側の1cmを動かします。
その小さな転換が、場の空気と印象と結果を、静かにしかし確実に変えていくはずです。